「服従」ー日大アメフト危険タックル問題

服従(ふくじゅう、英語: obedience)とは、

 

  支配者や支配集団の命令や意図に従って行動すること。

 

https://kotobank.jp/word/%E6%9C%8D%E5%BE%93-124021

 

社会心理学という学問に出会ったのは、勉強なんてさらさらする気のなかった大学一年生の夏。

 

社会学部必修の導入科目で、毎回違う社会学部の教授がやってきて、自分のやっている研究のことをぺらぺらしゃべるみたいな授業の、最後から二番目の回だった。

 

きっと毎回真面目に聴いていたら、素晴らしい教養の素地になってたんだろうなあ。ないものねだりです。

 

 

 

三年前の私は何を考えていたかというと。

 

長くて苦しかった高校生活や大学受験をやっと終えられて、国立大学に入れたことで鼻高々で、今までなーんにも良いことなかったわたしの人生はここから薔薇色だー、もう人生安泰だ何も頑張らなくていいんだーみたいな無敵モードで、

 

でも社会学部なんて、なんか文学部みたいなダサいのじゃなくて、わたしはビジネスとか金融とかそういうなんかカッコいい商学部に行きたかったのに、何でここなんだよ、っていうやさぐれがあった。

 

だから授業なんて、聞く気はさらさらなかった。一限なのに毎回出欠とられることにイライラして、でもTwitterで「一限だるい」「それな」みたいな余裕かましぶったツイートしてコメント返して、レジュメから適当に言葉拾った小学生の作文レベルのコメントペーパーを出してた。

 

国際関係論?興味ない。もう英語なんか見たくもない。政治学?興味ない。政治家が勝手にやっててくださいって話でしょ。教育学なんてつまんなそうなことを、この人毎日考えてんの?人生楽しい?みたいな感じで、社会学部の教授を見下しまくっていた。

 

私はマーケティングとか経済学とかそういう、今っぽくてカッコいいのしかやりたくないの。良い大学に入りたくて仕方なくて、死ぬほど努力して入ったんだから、大企業に就職して、かっこいいスーツ着て、コーヒー持って都心歩きたいの。勉強なんてもう一生分やったんだから、その結果ここにいるんだから、別にいいでしょ?

 

 

これをまさに、「大学デビュー」と呼ぶんだと、いまは思います。

 

 

でも、一回だけ、その教授のしゃべる言葉の一つも取りこぼしたくないと、スライドに出る概念すべてを理解したいと、強烈に思い、とんでもない集中力でメモを取った回があった。90分が、一瞬みたいだった。終わって欲しくないと思った。枠からはみ出てもなお、コメントペーパーに自分の所感を書き連ねた。

 

「『わたし』という他者」という題で、「わたし」という概念を、自伝的記憶や他者との関係などの視点から捉えるという、社会心理学の主テーマのひとつ、"self"への導入のおはなしだった。

 

いま振り返ったら、なぜ自分がそんなにも惹かれたのか、とてもよく分かる。理解してあげられる。

 

でもその時は、分からなかった。

授業が終わって、なぞの幸福感と鮮烈な「もっと知りたい」という欲求は残ったけど、だから久しぶりに本を読もうかなとかネットで調べようかなと思ったけど、そんなことよりも大学生らしい遊びの数々の予定を立てることの方が、その時は重要だった。楽しいけどどこか虚しい毎日をこなすのに必死で、家族に友達に先輩に彼氏に、良く思われたい嫌われたくないってそんなつまんないことにばっかり必死になって、一瞬感じた「楽しさ」をすぐに忘れてしまった。

 

思い出したのは、それから2年後、わたしを知る全てのものから逃避して辿り着いた留学先で、慣れない英語に苦戦しながら履修登録をしているときに、Social Psychologyという文字を見たときだった。

頭の中で日本語に訳して理解した瞬間、自分の中心に眠っていた何かが、急に鮮やかなピンクやオレンジの光をもって回りだした気がした。

 

 

 

…なんでこんな長々自分語り書いちゃっているかというと。(ここまで全部前置き!)

 

今テレビつけたら、うざいくらいアレしかやってない。日大アメフト危険タックル問題。

どのチャンネルでも同じこと言いすぎだ。そしてその「同じこと」が日々方向転換しすぎだ。三日前は批判炎上対象だった人を、今日はひっくり返って擁護むしろ賞賛。おいおい、最初から社会学的視点を持ってくれよー、人類の積み上げてきた英知に照らそうよー、というマスコミへの感情は置いといて。

 

 

社会心理学をかじった人なら、この問題、すぐに社会心理学的「服従」という概念に結び付けられるはずだ。

 

なぜなら、社会心理学という学問の初期対象は、服従の研究だったからだ。

 

社会心理学という学問は、「なぜ人は人に対して道徳的に間違った行為をしてしまうのか」という疑問から誕生した。※諸説ある

 

具体的に言えば、「なぜナチス下の役人はユダヤ人を残酷極まりない方法で虐殺できたのか」という出発点だ。

当時の学者の視点に入り込んでみようとする。調べる前は、この事実しかない。

 

ナチスドイツはユダヤ人を大量虐殺した。これほどの大量虐殺は、歴史上初のことだ」

 

仮説としてはこういうのもありだろう。

「ドイツ人の倫理観がおかしいから大量虐殺を行うことができた」

 

しかし、社会心理学者が様々な実験と考察を経て得た結論は(実験の内容も面白いから書きたいけど、説明してたらとんでもないことになってしまうので割愛。)、人間のけっこう恐ろしい、だけど紛れもない真実を、暴露している。

 

 

「人は特定の諸条件がそろうと、自分の意思に関係なく、支配者のどんな命令も実行してしまう。それが他人の命を奪う種類のものであったとしても、盲目的になってしまうことがある。」

 

 

終戦直前のドイツ人がおかしかったのではない。人は人に生まれた時点で、条件がそろえば誰でも、「おかしく」なるポテンシャルがある。

 

 

危険なタックルをしてしまった選手は、カリスマを内包し宗教化した団体の中で、自分の存在意義を真っ向から否定されることで自分を見失い、そのぽっかりした状態に「教祖」からの啓示がもたらされ、半自動的にそれを行ってしまった。

 

つぶせ。

 

筋トレも増量も頑張って、日夜遊びから離れて戦術を考え、汗を流して練習しているんだ。もっと、もっと、自分の持つものを、能力を、発揮したい。認めてほしい。親や友達や仲間に、認めてほしい。ああそうか、あいつをつぶさなきゃ、評価してもらえない。ここにいられなくなってしまう。これからの試合で使ってもらえなくなる。そんなの嫌だ。大好きなアメフトをやりたい。試合に出続けたい。認めてほしい。つぶさなきゃ。

 

だから彼が悪くないというわけではない。

 

 

子どもの少ない今、人集めに必死な私立大学からの勝利への圧力。スポーツ団体としての運営資金の獲得。日本のアメフト界からの期待。過去の監督の実績と自分を比較してしまう。また五月蠅いOBに口を出されてしまった。

責任に押しつぶされそうになり、それでも成功したくて、自分を守るために成功したくて、スパルタ式の方法で組織を統率する。恐怖による統治は、一時的な成功をもたらす。成功したことで安心し、権力におぼれていく。癒着。金。得た地位と名声を維持するために、どうしてもまた勝たなければいけない。一回負けたら、せっかく築いたものがパーになってしまう。なのに、相手チームに自分のチームの勝利を脅かすほどセンスのあるやつがいる。やばい。つぶさなければ。そうだあいつを使おう。あいつは真面目だから、うまいことやるはずだ。

 

つぶせ。

 

だから彼が悪くないというわけではない。

 

 

 

人間は怖い。

自分が、身近な人が、明日道ですれ違う人が、全ての人が、

逸脱行動をしてしまう可能性をひとしく持っているということが、怖い。

 

 

…まあそんなこと考えてると家から出られなくなってしまうので、性善説も心にとめています。人はみんな、どんなに変なことをしているように見える人でも、その人なりの考え方や感じ方に沿ってそういう行動をしている。みんな一応ロジカルだと思う。

 

 

ちょっと長すぎた。一気に書いたら疲れた。でもたのしかった。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

相反する「死」へのなにか

 死(し、英語: death)とは、

  • 命がなくなること。生命がなくなること。生命が存在しない状態。
  • 機能をはたさないこと、役に立たないこと。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB

 

ゼミで輪読しているのが、社会学の古典の古典、エミール・デュルケームの『自殺論』なので、内容は割愛するが、死、とか、自殺、に関する議論がけっこう多い。

 

 

毎回けっこう心拍数上がっちゃう。

 

 

それは置いといて。

 

 

人間が「他人の死」に対して抱く感情って、すごく掴めなくて、だからすごくおもしろい。

なぜなら、プラスに出るときもあるし、マイナスに出るときもあるから。

 

…うまく言えないな。伝わらん。言葉が足らん。うまくない。

 

とにかく、

人は「他人の死」に対してアンビバレントな感情を持っている気がしてならない。

なんでそうなのか、気になる。考えてみる。

 

 

 

ひとつめ。これは事実。

今年の頭、米国人気Youtuberが、日本の樹海で、自殺者の遺体を撮影して世界配信し、大炎上した。

「死者への配慮に欠ける」「自殺はみせものじゃない」「無神経だ」

などの非難が、舞台となった日本だけではなく、世界中から起こり、物議を醸した。

 

私も、このYoutuberに対してマイナスの感情を抱いた。「遺体の動画を撮って配信した」という行為に対して、直感的に「嫌だ、非常識だ、不快だ、あほか!」という感情を抱いた。多くの2ちゃんねらーも同様のようだった。

 

 

ふたつめ。これはただの所感。

新聞・TV・ネットニュース、全てのメディアにおいてめちゃめちゃ気になることがある。

 

「〇×県で交通事故、30代女性が死亡」「ガス爆発で〇人死亡」「路上で口論の男性、重傷」「親子が△山で遭難、未だ捜索続く」

 

こういうニュース、毎日のように見る。

毎日、誰が死んだとか、誰が死にそうとか、誰が死にかけたとか、そういう情報がたくさん、ニュースフィードに出てくる。

なんかなんとなく気になって、タップして、開いて、読んでいる。毎日。

何でだろう?と自分でふと思う瞬間はあるんだけど、あくまで「ふと」だ。なんか、気付いたら、読みたいなと思っている。ほぼ無意識的に指が動いて、そのニュースをタップしている。サイトに飛んで詳細を読む。

 

自分の知らない誰かが、どこで、どんなふうに、なぜ、死んだのかを、読む。

 

 

 

Youtuberが遺体を撮影したことには、とんでもない嫌悪感を感じる。

でも毎日、「他人の死」に関する情報に興味をもって、好奇心からなのか調べる。

 

何でだろうなーと思う。

 

「他人の死」に潜在的に興味がある人がたくさんいて、日々のニュースの少なくない割合をそれが占めるほど需要があるのにもかかわらず、

「他人の死」を生々しく映像で突きつけたYoutuberは、とんでもない非難と批判の嵐に晒された。

 

 

2018年の日本、多くの人は、日常生きてて、あんまり死って意識しないと思う。

 

それは、今の日本が戦闘状態ではないからだ。自分の身を守る術がなくとも、外を歩いているだけで殺される確率は、人がそんな可能性があることを忘れるほど、とても低い。ただ健康で若いというだけで、強制的に第一線の戦地に送られることもない。

 

人は本来、複数居たらそれだけで、様々な有限の資源を奪い合うために戦闘する。社会が複雑になればなるほど、その戦闘手段はより残酷になっていく。歴史を見れば明らかなことごとのはずだけど、歴史と、数々の内省と外圧、これらを経て2018年の日本は、世界でも類を見ないほど「安全な」国だ。言い換えれば、「高度に戦闘状態が解除された」国だ。

 

でもきっとどこかで、潜在的に、無意識的に、人間は人間の本能として、「死」を想定している。きっと、生物的本能で、回避しなければいけないターゲットとして、想定している。

 

だからこそ、同じ人間が、同じように日常を毎日を生きていた人間が、

何らかの「予期しえない」状況に遭って、「死んだ」というニュースに

本能的に興味をもつのではないだろうか。

今後、自分がそういう状況を回避するために。自分が死なないために。

 

でも、あまりにもリアルに「他人の死」を突き付けられると、人はパニックになる。

「自分は死にたくない」という潜在的な本能が、生々しい「他人の死」によって、爆発しそうになる。

そんな自分を守るために、自己防衛として、「他人の死」をまざまざと突き付けた人間をつるし上げる。みんなで一緒になって批判することで、自分を守ろうとする。怖いのは自分だけじゃないんだと、安心する。

 

 

違うかなあ。

 

根拠のない仮説かなあ。

 

まあ人間のことはよく分からない。自分のことすらよく分からない。だからこそ、私はめっちゃ人間に興味がある。

 

おもしろいなあ。

 

でもちょっと暴走しすぎました。シャットダウンします。

 

おやすみなさい。

 

 

 

「かのような」社会

社会っていうのは、みんながイカサマしてるポーカーみたいなもんです。

調和している「かのような」ものなんです。

 

って、昔の社会学者が言ってたらしいです。

 

めっちゃおもしろい。

確かにそうだわー。言い得て妙とはこのことじゃー。って、思った。

 

 

みんながイカサマしてるポーカー。

 

 

例えば、「赤信号は渡ってはいけません」っていうルール、幼稚園生でも知ってる。でもたぶん大人は、二日あったら最低一回くらいは、赤信号無視、してる。

 

それは、「この道は朝、車はほぼ通らない」と経験的に知っているからかもしれない。「前にいたサラリーマンも、隣にいるお姉さんも、赤信号だけど歩きだしたから」かもしれない。「時間にうるさい上司との約束なのに、遅刻しちゃいそうだからいいや」なのかもしれない。

 

 

例えば、「不倫はいけないことです」っていうルール、小学生でも知ってる。でも、世の中で不倫はそこら中にある。「私がこの人と不倫したら、フライデーされちゃうな」って、心のどこかで分かってる芸能人ですら、不倫する。

 

それは、「家で子どもの世話に手いっぱいの奥さんにはどうせバレない」と思い込んでるからかもしれない。「仕事のストレス抱え込みすぎて、疲れてるんだからしょうがない。ごほうびごほうび。」っていう心理かもしれない。「仕事ばっかりの旦那に、昼間私が何してるかなんて絶対、分からないわ」なのかもしれない。

 

どんなものであれど、人は色々理由を思いついて、社会的ルールを破る。それは、法律で定められているものかもしれないし、暗黙のものかもしない。でもどっちにしろ人は、ルールを「破りたいから」破っている、というわけではない。

 

だって、みんな、やってるから。みんなイカサマしてるの、知ってるから。自分だけじゃないよねって、思うから。そしてそれが、自分から言ったりしてバレない限り、誰も咎めることがないのを、知ってるから。

 

人間生きてたら、人に言えないことなんて一つや二つ、絶対にあるはずだ。それは、小さいころ友達の持ち物盗んだ、みたいな過去の記憶かもしれないし、疲れてる時、ダメだと頭で分かっていてもどーしてもこうするのがやめられない、みたいな、進行形の悩みかもしれない。

 

でも、分かっててもやめられないんだから、そんなんもう、どうしようもない。

 

それに、きっと隣に座っている人も、表には見えてないだけで、そういうのあるんだろうなあって、なんとなく想像できちゃうことで、安心できる。

 

みんなルール守ってるふりして、実はみんなイカサマしてる。でもみんなイカサマしてるの、みんな知っててルール守ってるふりしてるわけだから、なんかうまいこと世界は回る。

 

まさに、調和している「かのような」社会。

 

おもしろい!

 

けどいろいろ考えてたら眠くなっちゃった!

 

おやすみなさい。

地球に誰もいなくても、気温は変わるか?

人が想像できることは、必ず人が実現できる。(ジュール・ヴェルヌ)

 

と、なんか昔面白い本を書いた人が言ってて、

なんか有名な会社がCMで使ってるから、

とりあえず与えられた問いに、その「想像」力を使ってみる。

 

 

誰もいない地球で、気温は変わる?

 

 

「誰もいない」となると、人類絶滅かあと思う。

核爆弾をみんなでぶちあげまくっちゃったかなあみたいな。たぶんジョーカーさんがふじこふじこしちゃって、応戦してみんなふじこふじこしちゃって、第三次世界大戦だー核祭りじゃードーンドーン、で、

人類が絶滅しちゃったんだろうな、と。そういう陳腐な想像をします。

そいでなんとなく、一億年くらい放置されて、いろんな気候変動と核のかすと宇宙の奇跡によって、新たな「人間」誕生、

めでたしめでたし、みたいな。

ありがちなSF映画みたいな想像を、私はする。

 

だから、別に人間いなくても、気温はそりゃ変わるでしょ、と思う。

ていうかなんか感覚的に、人っ子ひとりいなくても、そりゃ天気は変わるよ、夏だって冬だってくるよ、だってそーいうもんじゃん。と、思う。

 

 

しかし先生曰く。

 

「いやいや、人間がいなかったら気温なんてないよ!そもそも地球なんてないよ!

え、何で逆に、感覚的に人間がいないのに天気があると思うわけ?」

 

ちょっと何言ってるんだろうかと思った。

やっぱり大学教授ってネジ外れてるなと思った。

 

でもよくよく説明されたら妙に納得してしまった。

 

曰く。

 

「気温」っていうのは、当たり前だけど、そもそも人間が作り出した概念だ。

 

概念ということは、いつまで経っても言葉では説明しきれないものだ。

気温って何?と小っちゃい子に聞かれたらたぶん、「なんか暑かったり寒かったりするでしょ、それを数字にしてはかるアレだよ」みたいな説明しかできない。

まあそれは置いといて。

 

たぶんきっと、人間は「気温」というものを、

「日々暑かったり寒かったりなんか体感するもんが毎日違くて、寒すぎると外にも出られんから、客観的にはかりたいなあ。」

と思ってつくりだしたんだろう。

 

てことは、「気温」っていう概念を感知する主体、人間が居なかったら、

そんなもの存在しないことになる。

 

もっといえば、「地球」を「地球」だって感知してるのは人間だけだから、

人間が居なかったら、「地球」だって無い。

 

 

…腑に落ちないような、落ちるような。

でもめっちゃおもしろいなと思った。さすが大学教授だなと思った。人への印象ってこうやってすぐ変わるんですねとも思った。人間やっぱり、説明しないと分かってもらえないよね。うんうん。

 

話がそれたけど。

 

「感知する主体がいなければどんな概念も存在しえない、だって生活を良くするために概念つくりだしたのが、その感知する主体たる、人間なんだから。」

 

おもしろいなあ。

 

けど一つ反論したい。

「感知する主体」=「人間」としてるのはどうなんだ?

 

賢いチンパンジーだったら、「きょうあついなあ」くらいは分かるんじゃ?

もしかしたらアリさんも、毎日歩いている地面を、「〇×△」的なアリ語の名前をつけて仲間同士で共有してるかもよ?

人類滅亡した後でも、何らかのちっこい生物は生き残ってて、彼ら(?)がそういう概念を、生物間で共有しているとしたら?

 

でもこんなこと言い出したら、「そもそも人間の定義って何や」みたいな議論にいってしまうことに気づいたので、頭おかしくなりそうなので、終わりにします。

 

おやすみなさい。