相反する「死」へのなにか
死(し、英語: death)とは、
- 命がなくなること。生命がなくなること。生命が存在しない状態。
- 機能をはたさないこと、役に立たないこと。
ゼミで輪読しているのが、社会学の古典の古典、エミール・デュルケームの『自殺論』なので、内容は割愛するが、死、とか、自殺、に関する議論がけっこう多い。
毎回けっこう心拍数上がっちゃう。
それは置いといて。
人間が「他人の死」に対して抱く感情って、すごく掴めなくて、だからすごくおもしろい。
なぜなら、プラスに出るときもあるし、マイナスに出るときもあるから。
…うまく言えないな。伝わらん。言葉が足らん。うまくない。
とにかく、
人は「他人の死」に対してアンビバレントな感情を持っている気がしてならない。
なんでそうなのか、気になる。考えてみる。
ひとつめ。これは事実。
今年の頭、米国人気Youtuberが、日本の樹海で、自殺者の遺体を撮影して世界配信し、大炎上した。
「死者への配慮に欠ける」「自殺はみせものじゃない」「無神経だ」
などの非難が、舞台となった日本だけではなく、世界中から起こり、物議を醸した。
私も、このYoutuberに対してマイナスの感情を抱いた。「遺体の動画を撮って配信した」という行為に対して、直感的に「嫌だ、非常識だ、不快だ、あほか!」という感情を抱いた。多くの2ちゃんねらーも同様のようだった。
ふたつめ。これはただの所感。
新聞・TV・ネットニュース、全てのメディアにおいてめちゃめちゃ気になることがある。
「〇×県で交通事故、30代女性が死亡」「ガス爆発で〇人死亡」「路上で口論の男性、重傷」「親子が△山で遭難、未だ捜索続く」
こういうニュース、毎日のように見る。
毎日、誰が死んだとか、誰が死にそうとか、誰が死にかけたとか、そういう情報がたくさん、ニュースフィードに出てくる。
なんかなんとなく気になって、タップして、開いて、読んでいる。毎日。
何でだろう?と自分でふと思う瞬間はあるんだけど、あくまで「ふと」だ。なんか、気付いたら、読みたいなと思っている。ほぼ無意識的に指が動いて、そのニュースをタップしている。サイトに飛んで詳細を読む。
自分の知らない誰かが、どこで、どんなふうに、なぜ、死んだのかを、読む。
Youtuberが遺体を撮影したことには、とんでもない嫌悪感を感じる。
でも毎日、「他人の死」に関する情報に興味をもって、好奇心からなのか調べる。
何でだろうなーと思う。
「他人の死」に潜在的に興味がある人がたくさんいて、日々のニュースの少なくない割合をそれが占めるほど需要があるのにもかかわらず、
「他人の死」を生々しく映像で突きつけたYoutuberは、とんでもない非難と批判の嵐に晒された。
2018年の日本、多くの人は、日常生きてて、あんまり死って意識しないと思う。
それは、今の日本が戦闘状態ではないからだ。自分の身を守る術がなくとも、外を歩いているだけで殺される確率は、人がそんな可能性があることを忘れるほど、とても低い。ただ健康で若いというだけで、強制的に第一線の戦地に送られることもない。
人は本来、複数居たらそれだけで、様々な有限の資源を奪い合うために戦闘する。社会が複雑になればなるほど、その戦闘手段はより残酷になっていく。歴史を見れば明らかなことごとのはずだけど、歴史と、数々の内省と外圧、これらを経て2018年の日本は、世界でも類を見ないほど「安全な」国だ。言い換えれば、「高度に戦闘状態が解除された」国だ。
でもきっとどこかで、潜在的に、無意識的に、人間は人間の本能として、「死」を想定している。きっと、生物的本能で、回避しなければいけないターゲットとして、想定している。
だからこそ、同じ人間が、同じように日常を毎日を生きていた人間が、
何らかの「予期しえない」状況に遭って、「死んだ」というニュースに
本能的に興味をもつのではないだろうか。
今後、自分がそういう状況を回避するために。自分が死なないために。
でも、あまりにもリアルに「他人の死」を突き付けられると、人はパニックになる。
「自分は死にたくない」という潜在的な本能が、生々しい「他人の死」によって、爆発しそうになる。
そんな自分を守るために、自己防衛として、「他人の死」をまざまざと突き付けた人間をつるし上げる。みんなで一緒になって批判することで、自分を守ろうとする。怖いのは自分だけじゃないんだと、安心する。
違うかなあ。
根拠のない仮説かなあ。
まあ人間のことはよく分からない。自分のことすらよく分からない。だからこそ、私はめっちゃ人間に興味がある。
おもしろいなあ。
でもちょっと暴走しすぎました。シャットダウンします。
おやすみなさい。