「服従」ー日大アメフト危険タックル問題

服従(ふくじゅう、英語: obedience)とは、

 

  支配者や支配集団の命令や意図に従って行動すること。

 

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社会心理学という学問に出会ったのは、勉強なんてさらさらする気のなかった大学一年生の夏。

 

社会学部必修の導入科目で、毎回違う社会学部の教授がやってきて、自分のやっている研究のことをぺらぺらしゃべるみたいな授業の、最後から二番目の回だった。

 

きっと毎回真面目に聴いていたら、素晴らしい教養の素地になってたんだろうなあ。ないものねだりです。

 

 

 

三年前の私は何を考えていたかというと。

 

長くて苦しかった高校生活や大学受験をやっと終えられて、国立大学に入れたことで鼻高々で、今までなーんにも良いことなかったわたしの人生はここから薔薇色だー、もう人生安泰だ何も頑張らなくていいんだーみたいな無敵モードで、

 

でも社会学部なんて、なんか文学部みたいなダサいのじゃなくて、わたしはビジネスとか金融とかそういうなんかカッコいい商学部に行きたかったのに、何でここなんだよ、っていうやさぐれがあった。

 

だから授業なんて、聞く気はさらさらなかった。一限なのに毎回出欠とられることにイライラして、でもTwitterで「一限だるい」「それな」みたいな余裕かましぶったツイートしてコメント返して、レジュメから適当に言葉拾った小学生の作文レベルのコメントペーパーを出してた。

 

国際関係論?興味ない。もう英語なんか見たくもない。政治学?興味ない。政治家が勝手にやっててくださいって話でしょ。教育学なんてつまんなそうなことを、この人毎日考えてんの?人生楽しい?みたいな感じで、社会学部の教授を見下しまくっていた。

 

私はマーケティングとか経済学とかそういう、今っぽくてカッコいいのしかやりたくないの。良い大学に入りたくて仕方なくて、死ぬほど努力して入ったんだから、大企業に就職して、かっこいいスーツ着て、コーヒー持って都心歩きたいの。勉強なんてもう一生分やったんだから、その結果ここにいるんだから、別にいいでしょ?

 

 

これをまさに、「大学デビュー」と呼ぶんだと、いまは思います。

 

 

でも、一回だけ、その教授のしゃべる言葉の一つも取りこぼしたくないと、スライドに出る概念すべてを理解したいと、強烈に思い、とんでもない集中力でメモを取った回があった。90分が、一瞬みたいだった。終わって欲しくないと思った。枠からはみ出てもなお、コメントペーパーに自分の所感を書き連ねた。

 

「『わたし』という他者」という題で、「わたし」という概念を、自伝的記憶や他者との関係などの視点から捉えるという、社会心理学の主テーマのひとつ、"self"への導入のおはなしだった。

 

いま振り返ったら、なぜ自分がそんなにも惹かれたのか、とてもよく分かる。理解してあげられる。

 

でもその時は、分からなかった。

授業が終わって、なぞの幸福感と鮮烈な「もっと知りたい」という欲求は残ったけど、だから久しぶりに本を読もうかなとかネットで調べようかなと思ったけど、そんなことよりも大学生らしい遊びの数々の予定を立てることの方が、その時は重要だった。楽しいけどどこか虚しい毎日をこなすのに必死で、家族に友達に先輩に彼氏に、良く思われたい嫌われたくないってそんなつまんないことにばっかり必死になって、一瞬感じた「楽しさ」をすぐに忘れてしまった。

 

思い出したのは、それから2年後、わたしを知る全てのものから逃避して辿り着いた留学先で、慣れない英語に苦戦しながら履修登録をしているときに、Social Psychologyという文字を見たときだった。

頭の中で日本語に訳して理解した瞬間、自分の中心に眠っていた何かが、急に鮮やかなピンクやオレンジの光をもって回りだした気がした。

 

 

 

…なんでこんな長々自分語り書いちゃっているかというと。(ここまで全部前置き!)

 

今テレビつけたら、うざいくらいアレしかやってない。日大アメフト危険タックル問題。

どのチャンネルでも同じこと言いすぎだ。そしてその「同じこと」が日々方向転換しすぎだ。三日前は批判炎上対象だった人を、今日はひっくり返って擁護むしろ賞賛。おいおい、最初から社会学的視点を持ってくれよー、人類の積み上げてきた英知に照らそうよー、というマスコミへの感情は置いといて。

 

 

社会心理学をかじった人なら、この問題、すぐに社会心理学的「服従」という概念に結び付けられるはずだ。

 

なぜなら、社会心理学という学問の初期対象は、服従の研究だったからだ。

 

社会心理学という学問は、「なぜ人は人に対して道徳的に間違った行為をしてしまうのか」という疑問から誕生した。※諸説ある

 

具体的に言えば、「なぜナチス下の役人はユダヤ人を残酷極まりない方法で虐殺できたのか」という出発点だ。

当時の学者の視点に入り込んでみようとする。調べる前は、この事実しかない。

 

ナチスドイツはユダヤ人を大量虐殺した。これほどの大量虐殺は、歴史上初のことだ」

 

仮説としてはこういうのもありだろう。

「ドイツ人の倫理観がおかしいから大量虐殺を行うことができた」

 

しかし、社会心理学者が様々な実験と考察を経て得た結論は(実験の内容も面白いから書きたいけど、説明してたらとんでもないことになってしまうので割愛。)、人間のけっこう恐ろしい、だけど紛れもない真実を、暴露している。

 

 

「人は特定の諸条件がそろうと、自分の意思に関係なく、支配者のどんな命令も実行してしまう。それが他人の命を奪う種類のものであったとしても、盲目的になってしまうことがある。」

 

 

終戦直前のドイツ人がおかしかったのではない。人は人に生まれた時点で、条件がそろえば誰でも、「おかしく」なるポテンシャルがある。

 

 

危険なタックルをしてしまった選手は、カリスマを内包し宗教化した団体の中で、自分の存在意義を真っ向から否定されることで自分を見失い、そのぽっかりした状態に「教祖」からの啓示がもたらされ、半自動的にそれを行ってしまった。

 

つぶせ。

 

筋トレも増量も頑張って、日夜遊びから離れて戦術を考え、汗を流して練習しているんだ。もっと、もっと、自分の持つものを、能力を、発揮したい。認めてほしい。親や友達や仲間に、認めてほしい。ああそうか、あいつをつぶさなきゃ、評価してもらえない。ここにいられなくなってしまう。これからの試合で使ってもらえなくなる。そんなの嫌だ。大好きなアメフトをやりたい。試合に出続けたい。認めてほしい。つぶさなきゃ。

 

だから彼が悪くないというわけではない。

 

 

子どもの少ない今、人集めに必死な私立大学からの勝利への圧力。スポーツ団体としての運営資金の獲得。日本のアメフト界からの期待。過去の監督の実績と自分を比較してしまう。また五月蠅いOBに口を出されてしまった。

責任に押しつぶされそうになり、それでも成功したくて、自分を守るために成功したくて、スパルタ式の方法で組織を統率する。恐怖による統治は、一時的な成功をもたらす。成功したことで安心し、権力におぼれていく。癒着。金。得た地位と名声を維持するために、どうしてもまた勝たなければいけない。一回負けたら、せっかく築いたものがパーになってしまう。なのに、相手チームに自分のチームの勝利を脅かすほどセンスのあるやつがいる。やばい。つぶさなければ。そうだあいつを使おう。あいつは真面目だから、うまいことやるはずだ。

 

つぶせ。

 

だから彼が悪くないというわけではない。

 

 

 

人間は怖い。

自分が、身近な人が、明日道ですれ違う人が、全ての人が、

逸脱行動をしてしまう可能性をひとしく持っているということが、怖い。

 

 

…まあそんなこと考えてると家から出られなくなってしまうので、性善説も心にとめています。人はみんな、どんなに変なことをしているように見える人でも、その人なりの考え方や感じ方に沿ってそういう行動をしている。みんな一応ロジカルだと思う。

 

 

ちょっと長すぎた。一気に書いたら疲れた。でもたのしかった。

 

おやすみなさい。